2012年4月19日 星期四

埔里手工紙業

   
紙の形成はおよそ二千年前の早期中国で
この発明は人類史上偉大の発明となった。
紙があるからこそ文化も伝わる事が出来て、歴史も今に残る。\
清朝末期;浦里のハンドメイドペーパー産業は中国伝統的な生産方法で竹紙を作っていた。この竹紙は所謂草紙のことで、主原料は稲草や竹である。
日本統治時期に 浦里の水質がとても優れていて和紙の製作に適している事をその時台湾を統治していた横溝大蔵が気づき、紙造りの実験をしようとして烏牛欄橋(今の浦里愛蘭橋)の下に紙寮を建てた。しかし不運な事に川水の流れが激しかったため、生産する前に崩壊してしまった。
1937年、横溝大蔵は寮の材料を紙から木造に換え、また同じところで寮を建てた。後、林雙傳と洪亦漢は恆吉城の応募で次々と寮に入って訓練を受けた。
当時は日本の作り方を継いだので主原料はまだ溝木の皮を使用していたが、経営開拓しに来た日本人の中で美濃和紙の製作法を極めた師匠がいて、そこから中国に改良された日本式製作法が導入される。
竹簾は日本式の紙製作法の中で最も難しい道具の一つで本来は日本本地から輸入していたが値段が高いため容易に取得できなかった。後林雙傳の弟である林榮昌が自ら竹簾の作り方を習得し、竹簾専門店を建て、浦里の紙産業の発展を促した。
浦里のハンドメイドペーパーの基礎は日本統治時代に固められ、帰属後の台湾国内の紙需要量が大幅に上がり、浦里のハンドメイドペーパー産業の発展は高速で進んでいった。
民国60年、台湾・日本・韓国の復旧し始めた頃
日本人が製作していた主原料溝樹皮の美濃和紙が書道に不適用だったため浦里の業者は書道用の宣紙を開発し始めた。そして台湾だけにではなく、日本と韓国にも供応していた。当時の浦里紙工場は既に50間ほど至っていて日本及び、東アジアで最も大きな紙供応地となって浦里の国際地位も固めた。
この時期に宣紙の研究開発員は主に青年で(林哲俊,陳正輝,陳文字,張百富,謝正秋,施春盛)その時開発された宣紙の品質は日本人に好かれ、今だ日本文房四宝中欠けられない紙種である。
浦里の全盛期はまさに民国70年~80年の時で、浦里も台湾ハンドメイドペーパーの故郷だと呼ばれるようになった。
しかし先天的な良い条件を持っているとは言え、浦里は工業産業とIT産業の時代で生きていく事はできなかった。
その理由として、書道を学ぶ人口の減少や生育力の低下、および3K労働の従事者がいなくなったななどが述べられた。浦里のハンドメイドペーパー産業もどんどん衰弱し、紙造りで生活を維持する人もどんどんいなくなり、浦里のハンドメイド工場の危機はもはや休業だけではいなくなった。
80年間積み重ねた紙工芸も後継ぎが見つからないままである。
紙作り産業は別にいつでもどこでも簡単に出来るものではなく先天的な自然環境と努力を積み重ねないとできないものだから、いったん、消えてしまうと再建はとても難しい。
幸い、新しく台湾の地元文化と地元の特色を見直して守ろうとする若者がどんどん増えていて、浦里も遅れを取らずに『広興紙寮』を建て、ハンドメイドペーパーの観光工場を発展し始めた。
さらに『造紙龍ハンズ』も建ち、現代紙芸休閑園区を広め休みになると浦里はいつも賑やかだった。そしてさらに今は恆吉城の『紙匠ハンドメイドペーパー工房』『頼志旺事務所』『技順企業有限会社』が積極的に浦里の紙芸復旧活動に参加し、『紙塾』を設立して この紙塾でハンドメイドペーパーの技術を教えることでハンドメイドペーパーの文化事業を深く探求できる事を望んでいる。
 
一番上な列で右から数えて三番目 黃鳳嬌
13才の時 会社での合同撮影 現技順企業有限公司社長娘
*
右から1番: 洪亦漢. 恆吉城
林榮昌の実家, 昔の竹簾網事務所. 現は紙漿畫事務所.恆吉城
洪亦漢時期の紙寮, 1940年
50年代恆吉城,右から林哲俊, 陳正輝,張百富。
紙漿を調合する林哲俊, 現在技順企業有限公司社長,恆吉

2012年4月9日 星期一

紙社區-恆吉城

 

 

 

埔里は手造り紙の故郷で恆吉城(恆吉社區)は埔里地区で手造り紙の工場が一番集中している地域。恆吉城内で設置した工場は手造り宣紙(綿料)が一番盛んでいた時期では大きな工場も小さな工場も含めて23間に至っていた。その中では宣紙専門の工場も、綿紙専門、紙加工場もあり、謂わばとても賑やかだった。しかしいい事が続かなく、景気がどんどん悪くなっていく中、紙工場もどんどん休業していく…。しかし、どんな理由だろうか恆吉城は埔里紙業の隆盛と衰えを見届けた。

平凡な街の周囲には

まだまだ三間の実力派の手造り紙工場が生産し続けている…

(手描き図:梁坤明先生, 田野調查資料:梁坤明先生, 恆吉城人 )

著作人