2012年7月22日 星期日

南投埔里手作り紙体験ツアー


林ちゃん

 今回私はこの体験のイベントに参加できて良かったです。沢山の外国人(香港人、韓国人等)も参加するとは思ってもみませんでした。
IMAG0331
朝、埔里に着いて最初に私達はペーパードームに行きました。このペーパードームは全部紙で作られています。建物も椅子も。紙で作られているけど意外に丈夫だったので私はびっくりしました。なぜ紙で作られているのに、こんなに丈夫なんだろう?紙で作った建物を初めて見ました。これは日本人が作ったそうです。
IMAG0333
ペーパードームの近くは沢山の蝶々と蛙がいます。台湾では全部で29種類の蛙がいて、埔里には23種類もいるそうです。また、埔里には210種類の蝶々がいるそうです。私が今まで見た事がない蝶々が沢山飛んでいました。この近くに一つの小学校があり、校舎の前が川で、後ろは山でした。ものすごく自然がいっぱいで40人しかいない小学校です。私もこんな自然がいっぱいな学校に入りたいな!
IMAG0332
次は紙工場に行きました。初めから紙を作る原料を準備してくれていて、私達は紙すきをして、そして型を作り、色付けをしてから乾燥させて完成。初めての体験ですごく楽しく、紙を作るのがこんなに難しくてこんなに時間が掛かるとは思わなかったです。もしも今度また機会があればもう一度作りたいです。
IMAG0340
元々午後は18度Cのチョコレート工場に行く計画だったけれど、行くと人が多すぎて結局通り過ぎただけでした。ここは埔里で有名なチョコレート工場らしく、楽しいにしていたのに行けなかったからすごく残念でした。
最後はある公園に行きました。公園の上は台湾の一番真ん中です。上に行くには、1,000段くらいの階段を登らなければなりません。私は行って見たかったけど、皆は疲れていて「行きたくない」と言ってたので、上には行かず残念でした。埔里は空気が綺麗で暑すぎずちょうど良い気温です。また地元の人も熱心で、ものすごく自然が多いところです。観光客にとっては、一度行くとまた行きたくなり、すごく良い思い出ができます。今回のイベントで、皆と一緒に体験して、遊んで、すごく楽しかったです。でももう少し皆とお話し出来れば良かったなと思います。もしも今度またこのようなイベントがあれば、私は絶対に参加したいです。

南投埔里手作り紙体験ツアー


今回、南投県埔里鎮手作り紙体験ツアーに香港人、韓国人、台湾人の方達と一緒に参加させていただいた。以前、同じ南投県の観光地“日月譚”には行った事があるが、埔里に行くのは初めてだったので、行く前からすごく楽しみだった。
320444_3794302209920_1688537708_n
私達の乗った小型バスは高速道路に入り 台北→ 桃園→ 新竹→ 苗栗 →台中→埔里へ向かった。 バスが、北部から中部へと移動するたび、車窓からの景色も変化し、緑を目にする量も増えていった。そして台北から約3時間ちょっとでようやく目的地の“埔里“に到着。評判通り、見渡す限りの緑が美しい。山が幾重にも重なりまるで絵を見ているようだ。それに空気も新鮮でとても気持ちが良い。大都市では味わえない感覚。私達が最初に訪れたのは、ペーパードーム(紙教堂)と言う所で、紙で出来た建造物がある。1995年日本の阪神大震災発生後、ある日本人建築家の指揮の下、神戸市長田区に作られた建造物を日本と台湾の間の交流の拠点として2008年に台湾へ移築。日本の阪神と台湾921大地震がつながりを作った。建物は紙で出来ているがなんと7,000kgまで耐えられるそうだ。また園内は自然がいっぱいで、沢山の蝶が飛びかっている。埔里には約210種類もの蝶がいるそうでこれには驚かされた。
IMAG0330
そしてバスは「造紙龍」という紙工場へ移動。ここでは、紙すきから絵付けまでを体験させてもらった。実際、自分で紙すきをやってみると意外に難しく、なかなか均一が取れない。スタッフの方に教わりながら何とか紙すき完了。次は好きな型を選びデザイン、色付け。最後は脱水し、木の額に入れてもらいようやく完成。自分で作った世界でたった一つしかない作品、まるで子供の頃に戻ったように一心不乱に楽しむ事ができた。いろいろとご指導いただいた紙匠工房の林政立さんによると紙の原料となる木は、「梶の木」で日本の東北地方にもあるそうだ。普段当たり前のように使っている紙だが、実際手作り体験をしてみて、これからは紙を大事に使用しなければならないと感じた。
409683_3794234608230_570116566_n
314037_3794233608205_197250966_n
482056_3794233408200_133057239_n
次に向かうは「豊年生態農場」という椎茸農場。沢山の種類の椎茸が栽培されていて、例えば、「補血珍菇」:うすピンク色で噛むと蟹の味に近いらしい。「白精霊」:えのきより大きく太く、真っ白。「鹿角霊芝茸」:本当に鹿の角のような形をしている。霊芝茶を試飲させてもらったが少し苦かった。蜂蜜などを入れ自分で味調整するのもいいらしい。
181299_3794286569529_670118103_n
527973_3794285529503_998489892_n
最後に台湾地理上最も中心部にあるという公園に連れて行ってもらった。約1,000段ほどの階段を登るとその中心地があるらしいのだが、時間の関係で登れず、下から眺めるだけだった。次回チャンスがあればぜひ登ってみて景色を眺めてみたい。
532536_3794298489827_1684725129_n
あっという間に楽しい一日が過ぎ、台北へ戻る時間となってしまった。今回の体験ツアーで深く印象に残った事は、地元の人の笑顔と親切さ、そして大自然の美しさである。今回埔里でお世話になった方々の笑顔をみて、私は普段忙しさのあまり笑顔になっていない事に気づかされた。また緑の山々の美しさは目に焼きついて離れない。もし日本の友達に「台湾旅行するならどこがいい」と聞かれたら私は絶対に“埔里“と答えるだろう。また時間を作って “埔里“に遊びに行きたいと思う。
532579_3794290969639_181167079_n

2012年4月19日 星期四

埔里手工紙業

   
紙の形成はおよそ二千年前の早期中国で
この発明は人類史上偉大の発明となった。
紙があるからこそ文化も伝わる事が出来て、歴史も今に残る。\
清朝末期;浦里のハンドメイドペーパー産業は中国伝統的な生産方法で竹紙を作っていた。この竹紙は所謂草紙のことで、主原料は稲草や竹である。
日本統治時期に 浦里の水質がとても優れていて和紙の製作に適している事をその時台湾を統治していた横溝大蔵が気づき、紙造りの実験をしようとして烏牛欄橋(今の浦里愛蘭橋)の下に紙寮を建てた。しかし不運な事に川水の流れが激しかったため、生産する前に崩壊してしまった。
1937年、横溝大蔵は寮の材料を紙から木造に換え、また同じところで寮を建てた。後、林雙傳と洪亦漢は恆吉城の応募で次々と寮に入って訓練を受けた。
当時は日本の作り方を継いだので主原料はまだ溝木の皮を使用していたが、経営開拓しに来た日本人の中で美濃和紙の製作法を極めた師匠がいて、そこから中国に改良された日本式製作法が導入される。
竹簾は日本式の紙製作法の中で最も難しい道具の一つで本来は日本本地から輸入していたが値段が高いため容易に取得できなかった。後林雙傳の弟である林榮昌が自ら竹簾の作り方を習得し、竹簾専門店を建て、浦里の紙産業の発展を促した。
浦里のハンドメイドペーパーの基礎は日本統治時代に固められ、帰属後の台湾国内の紙需要量が大幅に上がり、浦里のハンドメイドペーパー産業の発展は高速で進んでいった。
民国60年、台湾・日本・韓国の復旧し始めた頃
日本人が製作していた主原料溝樹皮の美濃和紙が書道に不適用だったため浦里の業者は書道用の宣紙を開発し始めた。そして台湾だけにではなく、日本と韓国にも供応していた。当時の浦里紙工場は既に50間ほど至っていて日本及び、東アジアで最も大きな紙供応地となって浦里の国際地位も固めた。
この時期に宣紙の研究開発員は主に青年で(林哲俊,陳正輝,陳文字,張百富,謝正秋,施春盛)その時開発された宣紙の品質は日本人に好かれ、今だ日本文房四宝中欠けられない紙種である。
浦里の全盛期はまさに民国70年~80年の時で、浦里も台湾ハンドメイドペーパーの故郷だと呼ばれるようになった。
しかし先天的な良い条件を持っているとは言え、浦里は工業産業とIT産業の時代で生きていく事はできなかった。
その理由として、書道を学ぶ人口の減少や生育力の低下、および3K労働の従事者がいなくなったななどが述べられた。浦里のハンドメイドペーパー産業もどんどん衰弱し、紙造りで生活を維持する人もどんどんいなくなり、浦里のハンドメイド工場の危機はもはや休業だけではいなくなった。
80年間積み重ねた紙工芸も後継ぎが見つからないままである。
紙作り産業は別にいつでもどこでも簡単に出来るものではなく先天的な自然環境と努力を積み重ねないとできないものだから、いったん、消えてしまうと再建はとても難しい。
幸い、新しく台湾の地元文化と地元の特色を見直して守ろうとする若者がどんどん増えていて、浦里も遅れを取らずに『広興紙寮』を建て、ハンドメイドペーパーの観光工場を発展し始めた。
さらに『造紙龍ハンズ』も建ち、現代紙芸休閑園区を広め休みになると浦里はいつも賑やかだった。そしてさらに今は恆吉城の『紙匠ハンドメイドペーパー工房』『頼志旺事務所』『技順企業有限会社』が積極的に浦里の紙芸復旧活動に参加し、『紙塾』を設立して この紙塾でハンドメイドペーパーの技術を教えることでハンドメイドペーパーの文化事業を深く探求できる事を望んでいる。
 
一番上な列で右から数えて三番目 黃鳳嬌
13才の時 会社での合同撮影 現技順企業有限公司社長娘
*
右から1番: 洪亦漢. 恆吉城
林榮昌の実家, 昔の竹簾網事務所. 現は紙漿畫事務所.恆吉城
洪亦漢時期の紙寮, 1940年
50年代恆吉城,右から林哲俊, 陳正輝,張百富。
紙漿を調合する林哲俊, 現在技順企業有限公司社長,恆吉

2012年4月9日 星期一

紙社區-恆吉城

 

 

 

埔里は手造り紙の故郷で恆吉城(恆吉社區)は埔里地区で手造り紙の工場が一番集中している地域。恆吉城内で設置した工場は手造り宣紙(綿料)が一番盛んでいた時期では大きな工場も小さな工場も含めて23間に至っていた。その中では宣紙専門の工場も、綿紙専門、紙加工場もあり、謂わばとても賑やかだった。しかしいい事が続かなく、景気がどんどん悪くなっていく中、紙工場もどんどん休業していく…。しかし、どんな理由だろうか恆吉城は埔里紙業の隆盛と衰えを見届けた。

平凡な街の周囲には

まだまだ三間の実力派の手造り紙工場が生産し続けている…

(手描き図:梁坤明先生, 田野調查資料:梁坤明先生, 恆吉城人 )

著作人